あおとわたし

3人の子供がいます。まんなかのあおは、中間子あるあるなのか、発達特性か、きょうだい児(下の子がダウン症)あるあるなのか、少しこじれ中。年長から児童発達支援つかってます。

あおの涙

きのうは公園で少し遊んですぐプールに行く予定だった。ふとしたことで男の子たちがもめ始め、珍しく、3人対あおという形になって、3人が走って笑いながら逃げていったり、あおにとって1番いやな「弱い!」という言葉を投げつけたりしていて、あおは怒り狂ってみんなを追いかけてて、それが嫌でまた逃げられる、ということが始まってしまった。いつもは、いじられキャラみたいな子とあおで揉めて、そこに他の子が介入して大騒ぎになるとか、あおと波長のよく合うTくんと2人で盛り上がってしまい、悪ぶっていろんなことを言うので他の子が嫌がってもめる、と言うことがほとんどなので、こんなにわかりやすく(本人にとっては)理不尽に3人と対立するなんてことはなかったので驚いたけど、さらに驚いたのはわりと早くからあおが、ポロポロと涙をこぼしてわたしのコートに顔をこすりつけてきたことだった。

あおは公園では決して泣かなかった。小さい時は別として、大きくなってきて友達同士でよく揉めるようになり、中にはすぐ泣いてしまう子、すぐに泣いて親に言いに来る子、など色々特性が見えてきた頃から、あおは決して泣かなかった。嫌な時も、納得がいかない時も、常に怒っていた。自分では納得いかなくて、みんなに責められたり、責められそうになると、茂みに入って、悔しさでいっぱいな顔でうずくまっていた。相手が泣いて、大人がどうしたのー、とやってくる時点で、あおはもう、自分が悪者にされたような気持ちでいるようだった。それは周りの大人ももちろん、泣いてる子が被害者というわけではないとわかっているのだけど、大人がわかっていることをあおはわかっていなかった。茂みの中で、みんながおれのこといじめるんだ、というようなことを言い、気持ちが収まると出てきて、でもすっかり落ち着いているわけではないので、おさまらない気持ちを人にぶつけようとしてまた大したことも起きていないうちに泣かれたりして、見ていられなかった。話を聞くということも、聞いてもらうと言うことも、選択肢にない。ゲンコツにした手を車輪のように振り回す威嚇で友達にぶつかっていき、時にはその手が当たって「なぐられた」と言われたりした。どうにもならなくなって友達のいる方に石を投げたこともあった。その度にわたしはかけつけ、危ないことをやめさせ、もちろん双方の言い分を聞くとか、素人なりに良さそうなことは全部やっていた。でもこの一年位、そんなことばかりだった。のゆも目を離せなくなる時期で、あおが揉めるとのゆは他のお母さんが見守ってくれた。年長の女の子がつきっきりで遊んでくれてて任せていたこともあった。とくに昨年の暮れ、二学期の終わりは、揉め事が頻発し、あおとTくんが2人で盛り上がってしまった時は特に気をつけますと他の親に、ラインで謝ったりしていたので、冬休みはいくつかの学年での遊びも、メンバーをよく見て参加して、というか予定もそんなに合わなかったので、無理に参加しないようにした。少し離れたいと言うのが本音だった。

 

別に、なんてことのない冬休みだった。コロナが少し終息して2年ぶりくらいにおっとの実家に集まったり、そこで会ったいとこたちがあおのやんちゃぶりに度肝を抜かれたり、のゆが預かりの日はあおとわたしで出かけたり、本当に久々に家族でディズニーランドに行ったりした。あおはしょっちゅう叱られていたし、細かく褒めるとかいろんなやり方を、ペアレントレーニングで学んでいるわたしも、冬休みにはお手上げと感じていた。でも、年明け個別療育に行って「年明けて落ち着きましたね」と言われて、次の個別療育にのゆをつれずに行ったら甘えまくりということが起き、きのうは初めて公園で泣いた。泣いて、わたしを頼ってきた。どうにかしてくれとか、相手を叱ってくれとは決して言わない。絶対に自分で解決する。でも、怒りで歯軋りしていたような子が、その気持ちを涙にして外に出すことができ、その時わたしのふかふかのコートに顔を擦り付けることができた。これはわたしからみて、一つの大事件なのだった。

結局その後、まだ公園にのこっていた幼稚園の先生が間に入りみんなの気持ちを聞いてくれた。あおの1番好きなTくんは、お母さんとは落ち着いて話せていたけど先生が来たことで責められると感じたのか、帰る、と言ってどうにもならず、帰っていったけど、2人とあおと先生で、ベンチに座って随分長く話していた。最初のきっかけがなんだったかはわからないらしい。とにかくあおは、「みんなで逃げて、弱い、と言われたりしたのが嫌だ」、2人は「あおが怒って追いかけてくるのが嫌だ」で、卵が先か鶏が先か、なのであるけど、途中で話が終わりそうになった時あおが「まだ!まだ話は終わってない」と言ったらしく、そこまで言えたのかとありがたく思った。気持ちを聞いてもらえる、相手からも聞ける。納得いくまで話せる。その経験を積んでいったら変われるのではないか。その話し合いじたいが、一つのセッションだった。もうプールはいいな、振り替えだな、と思ってわたしは待った。納得いくまで話し合うと3人はもういいや、あそぼ!となり、走り出して去っていった。

 

公園で遊ぶ日を減らそうかとさえ思っていたけど今日みたいなことがあるからわからない。そして4月は就学。小学生になるまでに、少しは課題を克服して、集団で楽しくやっていけるようになるだろうか。

アイム ホーム!

 


きのうはあおの療育で、のゆを幼稚園に預けたままにして2人で行ってみた。いつもはのゆを連れて行くので部屋の隅で2人で見学したり、マジックミラー付きの別室で待たせてもらったりするのだけど、時間帯を変えたこともあり、のゆは幼稚園に残らせることにしたのだ。

 

いつもの時間より早いのでほかのこどもが誰もいなく、広い部屋につい立てを立てて先生と向かい合い、わたしのための小さな椅子が壁際に置いてあった。とつぜん、あおがわたしの背中と壁の間にもぐりこみ、べたべたと甘えてきた。ママママママ〜というようなことを言っている。それはもうびっくりするくらいの甘え方で、先生が「おうちではいつもこんな感じですか?」というので、「いえ、こんなの見たことないですね」と言うと先生は、「そうなんだ…」としみじみ。「じゃあ先生邪魔しないからさ、とりあえずこのゲーム片付けようか?」と言っても、あおはうねうねとわたしに絡みついて離れない。こんなのあまりないです、歩き出したと思ったら1人でどっか行ってるような子だったから…、と言ったけど、確かにそうだけど、きっとまあ、すぐにのゆが産まれて、家の中がバタバタして、通院だ入院だと留守番が多くなり、わたしは2年ほどはのゆに持っていかれてるような状態だったと思う。ありとあらゆる人に人見知りせず懐き、1人で遊び、よく眠り、楽しく暮らしているようだったけどそれは本人の生き抜く戦術だったのだろうと、今はわかる。先生は「甘えられてよかったねえ、言えるようになったんだねえ」と、心底、よかったなあと言う気持ちで見てくれた。そのとき突然あおが、会話の中の「家」という単語を拾って「イエー!イエーイ!イエー!」と叫び始め、わたしに巻きついたまま、「いえー!おれのいえー!」と叫んだのだ。ただの言葉遊びなんだろうけど、と思いつつじーんとしていると、「おれのいえー!」とわたしに抱きついてきたので、なんだか、「あなたが自分の家だよ」と言われているようで、ああこれはすごい言葉だなと、すこし、涙が出そうになった。

 

家で1人で遊んでいると、変なことばを繰り返して自分でテンション上がりすぎ、うるさくしすぎ、暴れすぎて咎められる、ということが、あおにはある。療育先の面談でそれを話すと「そうやって暇を潰すのが習慣になってるんじゃないかな」と言われたことがあった。1人で遊んでるし、ママ来て!と強く言われることもないから遊ばせていた。というかむしろ家で仕事や家のことをしながら子どもと過ごすことの多い主婦であるわたしにとって、子育ての最上のラッキーは「こどもが1人で集中して満足して遊んでくれている(できればテレビを除く)」と言う時間であり、それが家事タイム、仕事タイム、わずかなコーヒータイムだったりするのですっかりそう言う頭になっていたけど、「ママ来て!」と言わないからと言って求めていないとは限らないし、甘えてくるけど邪険にされる、みたいなわかりやすい形ではなく、あおは、甘える機会を、奪われ続けてきたのだと思う。おっとは定期的にそんなあおとの時間を増やすべく、添い寝したり、ゲームしたり、朝遊んだりと困難を感じた時ほど仕事を調整して工夫していたし、その都度少しの効果が見られていた。わたしがのゆりに手がかかる、と言うのは仕方ないから自分があおを受け止めなくちゃ、とずっと、言ってきた。それはわたしにこそ必要な発想だったんだと思う。

 

その日は帰宅してからもいつになくわたしに甘えて、「ママ大好き!」と言ってきたり、反対にのゆを邪険にしたりした。いつも放っておいたらいつまでも2人で遊んでいるのに、のゆを邪魔にして、わたしと遊びたいのだと言った。それはごくまっとうな兄の姿でもある。のゆがいろんなノートやプリントやシールの入ったスペースを全部出しているのを放置し、あおと1時間半、『ウォーリーをさがせ』をやった。それから少しテレビを見せて、お風呂に入らせ、予定より遅れて夕飯にした。こんな日をどのくらい繰り返せたら、あおの、欠落した思いが埋められるのかわからない。あなたがわたしのイエ。そんなふうに、アイム ホーム!と帰ってきてくれるように、やたしはあおに、甘えてもらえるところから、始めなくてはならないと思う。